思うままに生きる

大人になって思うままにいかないことが増えた、と誰かが話していた。そうかーそういうもんかもな、と思って聞いていた。

でもじゃあ子どものころは思うままに生きていたのか?と考えてみると、子どものころは世界も狭くて、時間がたくさんあって、親の最終的な保護のもとに、好きなことをしていたな、とは思う。けれどそれは単純に、やりたいことの中身が求めてくる需要と、周囲の供給環境が、需要<供給であっただけなのではないかなと思う。

わたしの中での「思うまま」は、目の前の物事に自分の意思をどのくらい反映させるかということに尽きる。今日の食べ物を、自分でどのくらいの意思を持って決定するか。目の前で倒れた人に、どのようにどれだけ手を差し伸べるか。何にどのくらい目を向けて、何を自分の仕事だと捉えて、なにを捨てていくか。あるいは、周りの人間や環境にどれくらいの影響を受けることを許容するか。

人に何かを指示されたときに、反抗して自分の意見を通すことが「思うまま」ではない。

人に何かを言われたら、それをどの程度受け入れて自分の行動に反映させるかの決定を、自分自身で行うことが「思うまま」だ。

定職に就いているときには、収入の3パーセントくらいは寄付することにしている。自分で寄付先を選んで、登録している。それはもちろん社会に貢献する一つの手段としてということもあるのだけれど、自分で稼いだ自分のお金を自分がなにに使うのかという自己決定の過程での、ひとつの「どう生きたいか」の結論だ。

夫に子どもの迎えにいってもらう時には、できるだけそこで空白のできた時間を仕事ではなくて自分自身の交友関係の維持と精神維持のために使うことにしている。どんなに忙しくても、わたしに足りないのは仕事ではなくて人とのコミュニケーションだと思っているからだ。

白杖を持った方が目の前にいたら、必ず声をかけることにしている。目の前で立ち上がれない人がいたら必ず声をかけることにしている。それはわたしの職業の社会的な役割だと思っているし、その後に待っている自分の些細な用事よりも目の前の少しの困難の解決の方に携わる方が大抵の場合良いことだと信じているからだ。

思うままの自己決定なので、それで生まれるかもしれない何かしらの苦労も(お金の工面や仕事の調整や時間の都合など)含めて決定の中には含まれていると思っている。自己決定なので、自己責任は取るつもりだ。

だからわたしの「思うまま」は、大人になってできるようになったことが多い。

思った通りにいかなくても思うままにできることは増えた。大人って悪くない。