言葉や数字ではなくて
言葉も数字もとても便利なもので、わたしたちの中身を少し外に出すために必要不可欠な道具だ。
感じていること、考えたこと、ヒトはそれを表出して誰かに理解してもらいたい生き物だから、それに有用なツールを手に入れた。
ただ、それは記号であって、言外の、行間の、『ホンモノの』何かが確実に伝わることはない。地図記号を見てそこに学校があることはわかっても、そのなかにある子どもたちの笑顔にまでは届かないのと同じだと思う。
記号で表すと便利なのは、それが分類しやすいからだ。そして分類されればさらに便利になって、それに頼りたい気持ちは増してくる。螺旋状に循環している。
わたしは女に分類されている。
わたしは母に分類されている。
わたしは働く女に分類されている。
わたしは中年に分類されている。
言葉や数字で分けられている。
松岡正剛氏曰く人は様々な場を生きている。しかしその様々な場は、作られた記号であり分類に過ぎない。
その奥の、略図的原型、コンティンジェンシーに満ちた分類される前のわたし、は、一体どこにいるんだろう。
分類には興味がない。
むかしから枠を与えられるのが大嫌いだ。
けれど大嫌いということ自体が分類への執着なのかもしれなくて、もしかしたら女に生まれていなければ男並みの学歴なんて身につかなかったかもしれないし男性たちと働いていなかったかもしれないという矛盾は、抱えている。
分類から逃げられない。
けれどもそれでもわたしはわたしの源流の、分類の手前の人としての、そのまた手前の動物としての、もっと手前の生命体としての、そういうわたしを探して、生きたい。
言葉でわたしを知るよりも、数字でわたしを知るよりも、声のトーンや笑い声や、握る手と立ち去った後の空気で、わたしを知って欲しいという願望がある。
めんどうくさい。