待ち伏せ、お手つき、先回り
我が家に雲梯がやってきました。たくさんたくさん歩いてほしくて、それが達成されるような生活の環境を設定するようにしているけれど、上半身てなかなか使わないなーと思っていて。
ハイハイとか最高だけど、歩くようになったら這わないし…それにそろそろ、腕を頭の後ろまで持ってくるような、背中をたくさん使うような、つまり胸郭が思いきり開くような筋の使いかた、できるようになったら世界が広がって楽しいだろうなあと思う月齢にもなったので。
はじめての、大掛かりな、遊具。
組み立てて狭くなった部屋を広くすべく、彼のお気に入りだったイケアのテントを片付けたら「それはかたづけないでいいんだよ」と抵抗していたけれど、出来上がった雲梯に、テントのことはすっかり忘れて没頭していました。
ヒモでぶら下げられたブランコも、スルスル木目の細かい滑り台も、少し、不便にできています。
ブランコは安定しないし。
滑り台には登る階段がないし。
それから雲梯本体も、もちろんまだぶら下がって渡れないし、上に登って渡るのもおっかなびっくり。
安全ネットもないし。
複雑に足場は入り組んでいるし。
大人には大人の、雲梯の使い方のゴールがあって、たとえば身体を支えてあげれば、ぶら下がって渡れるかもしれない。たとえば横にずっと付いていてあげれば、怖がらずに上を渡れるかもしれない。
滑り台には乗せてあげればいいし、ブランコは揺れを制御してあげればいいかもしれない。
けれど、こういうものを目にした時に、自分に今できること、できないことを判断して自分にできることだけで遊ぶ、という選択肢もあるんです。
おそるおそる、手を出す。足を伸ばす。
その結果、何か彼らの目指したものを達成したときの、笑顔。
その結果、思っていたより難しくて、泣いて助けを呼んだときの、セーフティネットとしての親の実感。
どちらも、大切にしたい。
『こうやるんだよ』と教えたら、そのやり方しか学ばない。
『支えてあげよう』と助けたら、心も身体も挑戦を忘れてしまう。
待ち伏せ、お手つき、先回り。『教える』の陰に潜んだ欲求を、どう抑えるか、いつも葛藤しています。
さて、今朝はどんな遊びかたをするのかな。
それにしても、雲梯、て、素敵な日本語ですね。