『ひとりで生きられる』の先にあるもの

ひとりで生きられる、にはいろいろな定義があるかもしれないけれど、経済的な自立と精神的な自立の両輪があって初めて成立する「状態」なのではないかと思っている。

『ひとりで生活して、経済的に回せる。ひとりで生活して、精神的に安定している。』、そんなようなことだ。

子育てをするようになって、特に具体的な子育てビジョンというものはないのだけれど、20年後くらいに自分の子どもがひとりで生きられるようになっていたらいいな、と想像するようになった。もちろん、それが15年だろうが25年だろうが30年だろうがかまわないのだけれど、ひとり、という能力を身につけてもらいたいなという気持ちを漠然と持っている。

 

最初にこれを「状態」だ、と定義したのには、理由がある。それはそれ自身が個を決定する要素なのではなくて、あくまで個があってその「状態」にいることができる、ということが大切なのだと思っている、ということだ。

『ひとりで生きられる』は、ともすると『ひとりでも寂しくない』に変換されがちだ。『ひとりでも寂しくない人』という個になること、は、『ひとりで生きられる』という状態になることとは、大きく違うと思う。

ひとりではさみしい、と、感じられる人間に育ってほしい。けれど、ひとりでも生きられる人間になってほしい。そして、ひとりでも生きられるけれど、ひとりでいないことを選択してくれたらいいなと思う。自分自身も、いつもそうでありたい。

前を見ると、先達がいますか。

後ろを見ると、後輩はいますか。

横を見ると、友はいますか。

心を、開けますか。