012 椅子作りにこめた気持ち

いろいろな分野の専門家がいて、いろんなことを言っている。

一つ身体の専門を持つ者として、わたしもいろいろ『いいたいこと』がある。

でもどんなに単純な一言でも、発する側と受け取る側には少し差異が生まれるし、もちろんそれは受け取る人によっても変わってくる。

こうすればそれだけでよい、という答えは、いつだって『ない』。その前提からして、受け入れ度合いは千差万別だ。

運動については、人より勉強してきた分野でもあるので、あれもこれもそれも、と、伝えたい。けれど、その子育てはわたしの子育てじゃない。それに、子どもとの関係は何十年と続いていくわけで、012の時間はその土台を育てる時期だと思うから、余計に、その親子の関係の中に入り込むことがいいことだとは思わない。

どう思う?を引き出せたら、一番なのだと思う。どう思う?に答えるには、感覚を働かせて、触れ合わなければならないから。

椅子は、椅子ひとつで何かが変わるなら(確実に変わる)、まわりのものそれぞれが身体に影響してくるかも、と、気づくいいきっかけになるんじゃないかと思って提案している。けれどこれが全てを解決するわけがない、ということも、きっと、実際に作って使ってみるプロセスを通してそれぞれが気づく。

「答えを教えてくれない」という不満には「答えは目の前の身体の中にしかない」と言うしかない。それに気がつくだろう、という『信頼』を忘れないでいたい。手取り足取りは常に間違いだから。

わたしの専門はバイオメカニクスで、力学のいいところは複雑な物事のエッセンスを取り出せることにある。理学療法の治療は究極の個別性の尊重だけれど、バイオメカニクスはその土台の普遍性を扱う。椅子作りも、同じ、土台に過ぎない。

個々の『個性』を、ほかの『個性』が真似ることは無意味だし、『個性』にこだわり続ける限り、普遍的な話はできない、とも思う。

そこから先は個別に話さないとなんともなりませんよ、ということに、人の身体の問題は必ず行き着く。

それは百も承知だ。

けれどそれでも無視できない、普遍的な部分を伝えたいといつも思っている。