成熟は内発的なものだ

9日間の安曇野での避暑を終えたら、緑のカーテンの元気がなくなってしまった。誰に託すでもなく置いておかれたのだから仕方ない。しかしそれでもまだ結実させる力は残っていて、いくつかの実が高いところに下がっていたので収穫した。

緑色の固い実から、鮮やかな山吹色になってはじけた実まで、収穫した五つをならべてみて、中身が気になったので解体してみた。

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自宅で収穫したとき、いくつかは、収穫後1日足らずで黄色くなってしまうことを常々不思議に思っていた。スーパーで買うと、そうはならない。緑で買ったものは緑色のまま、冷蔵庫で静かにしている。解体してみて、その理由が(たぶん)わかった。

ゴーヤの成熟は内側から始まっている。種の周囲を取り巻く組織がオレンジ色に染まり始めたら、もうストップは効かないのだ。外側は緑色でも、中では大切な種を成熟させる過程が着々と進んでいる。

人の成熟もこういうものかも。とふと思った。

内側から変化する。外側からは見えない。外見に変化が現れ始める頃には中身はすっかり別物になっているのだけれどそこまで誰も気がつかなくて、あっ変化してきた、と感じたらもう、あっという間に成熟していってしまう。そして、はじける。はじけた実の中身は、甘い。

何がトリガーか、きっと、科学的にはわかっているんだろう。だからスーパーに並ぶゴーヤは全て緑なのだ。(もしかしたらバックヤードで、早熟なものたちは捨てられているのかもしれないけれど。)

スイッチが入る前に収穫されてしまえば、もうそこに成熟の変化はない。内的な目的化を経ずに、外の目的のために収穫される。人の成熟と重ねて、怖くなった。

 

追記:あとね、枯れていく彼らは、先の方の、高いところの若い葉と蔓にだけ、水と栄養を回しているんだ。下の方の葉を殺して、でも太い幹だけは、土台として残して。もう、手の届かないところにしか結実しない。