どういう学びが好きですか

学びの方法について、教育する側になってはじめて考えるようになった。

わたしは子どもの頃から活字が好きで、湯船の中で活字を探してシャンプーやリンス(なつかしい)の説明書きを繰返し読んでいた。(少し大きくなってからは「自分で買った本」をお風呂に持ち込めるようになったのでコンディショナーの細かい説明はよく知らない。)だから、と言っていいのかはわからないけれど、中学ぐらいまでは勉強が得意だった。

『なぜ読むのか』 『そこに活字があるからだ』

そんなわけで、求められる学習が苦ではなく、『なぜ学ぶか』を自分に問うたことも他人に問うたこともなかった。教員になって『どうしてこれを教えなければならないのか』という疑問とともに初めて『学ぶ側のナゼ』に気付いた。

わたしの勤める学校に毎年100人入学してくる学生たちと、成績や学習方法の面談をしていると、「学習の方法を知っているか」というひとつの軸で二分される。成績のいい学生と成績の悪い学生の「勉強時間」はさして差がない。

では、わたしたちは「学習の方法」を学んできただろうか。

以前から教育学の分野では、経験学習モデルという概念のもと、「個人の効果的な学習方法」にはタイプとパターンがあると言われている。具体的には、CE:直接体験型 feeling、AC:抽象概念型 thinking、RO:内省観察型watching 、AE:試行実験型 doingを分類する質問項目に答えて、AC-CE軸と、AE-RO軸で自分がどの象限(Accommodator、Diverger、Converger、Assimilator)に入る人間なのか知ることができる。軸の基準である4つそれぞれに、学習パターンの得意・不得意があるとされていて、その組み合わせで判断する(Kolb.D.A.; Learning Style Inventory (1976), Technical Manual,  Boston, MacBer)。

やってみるとわたしはConverger(thinking-doing)で、なるほど、となるのだが、このConvergerが原点を挟んで対称のDiverger(feeling-watching)を教える、となると、「自分のやりかた」では上手くいかなくなってくる。どれが正しいというわけではなく、それぞれの特徴を踏まえた万遍ない構成が多くの学生を対象にした授業には必要だという話なのだが、一番いいのは、自分の癖を知り、自分の癖を知っている人間に教わることなのではないかと思う。

わたし=Convergerは、わたしが受けてきた日本の義務教育に向いている型のような気がする。そして、わたしの感じてこなかった『なぜ学ぶか』の疑問は、もしかしたら違う象限で学ぶ学生たちの疑問なのかもしれないと思う。

『なぜ学ぶか』には哲学的にいろいろな答があるだろう。けれども少なくとも『自分の学びとはどんな学びなのか』『学び方の癖は何か』を知って、偏りを減らすなり増やすなり、方向性を決めるべきだ。学びのために予め用意された時間は少なく、自分で用意するにはエネルギーがいる。方向性の発見を手伝えるような人間になりたい。