意味の半径
純粋に文章を書く技術を向上させたくて編集学校や編集講座を受講しているわけではない。
でも、よく聞かれるその理由や楽しさを人に説明するのがはとても難しくて、1分でまとめなければいけない自己紹介みたいに、わかりやすくまとめやすく楽な方法で自分のこの半年のエネルギーの行き先を説明している気がする。
と思っていたら、今朝開いた師範代からの返信に、こんな校長の言葉が引用されていた。(文章の最後に添付)
意味の半径を広げることこそ、学びなのだと。
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人生に意味なんかないとわたしは思う。
生まれて、生きて、死ぬ。
死ぬために生きているわけではない。でも、だからといってわざわざ生きることに意味を見出さなくたっていいとは思う。
意味って、人生そのものに付随してくるものではないんじゃないか、と思う。
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臨床にいたとき、担当の患者さんを何人も失くした。そういう部署にいたから、といえばそれまでだけれど、毎回つらかった。
患者さんたちが遠い目をして話し出す昔の話が大好きだった。
若い患者さんも、年老いた患者さんも、自分の物語を持っていた。
社長さんも、農家の人も、ずっとヤクザをしてきたひとにも、主婦にも子どもにも同じように物語があった。一対多数の仕事の中で、わたしはある意味では自分自身のために、その人がどのように生きてきたかを聞くようにしてきた。
彼らの過去の人生を共有できることこそが、わたしの仕事を支えていた。
そうでなければ全てがルーティンになってしまうような気がしていたし、彼らの人生の中で自分の仕事が何の意味を持つのか知りたかったのだと思う。
彼らの物語は、わたしにとっての意味だった。
患者さんたちが生きる意味を問うているとき、患者さんたちの話は、わたしの毎日の意味だった。
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いまも、自分の人生自体に意味なんてないと思って生きている。
けれど、自分の中で毎日の時間が物語になっていっていることは感じている。
もしかしたら、自分の物語に『中略』と書き記すことがこわくて編集学校にいるのかもしれない。と、添付の文章を読んで思った。
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それでもやっぱり学びたい。
学ぶとき、自分は人間でよかったと思うことができる。
それだけでも、生きる意味になるんじゃないかと思う。
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<以下、添付>
そもそも「学ぶ」の意義は、複雑で薄情なシステム社会のなか
で「問題を立てる」ということにあります。そうすれば、そこに
自己組織化や自己変更化をおこしていける。あるいはそのきっか
けをつくっていくことができる。これが「学ぶ」の本来のキモと
いうものです。
自分の仕事や生活にかまけていないで、ちょっとしたことでも
いいから、あえて問題を立ててみれば、そこになんらかの自己組
織化や自己変更化のきっかけがおこります。イシス編集学校です
でに実感してもらっているように、「お題」に遭遇していくこと
が、やっぱり刺激的で、効果的なことなんです。問題に出会うこ
とでそれまで潜在していたいろんなトリガーが見えてくるからで
すね。しかも、お題は言葉でできているから、これは言葉を学ぶ
オケージョンにもなるのです。
★つづいて★
諸君は仕事も家庭もマジメにやっているのに、いろいろなこと
がなかなかうまく学べないとか向上しないとかと思っているかも
しれません。
なぜそんなふうになるかといえば、学んでいる自分の“持ち合
わせの条件”を自分勝手に詰めすぎているからです。自分の持ち
合わせの半径で決めているのです。“持ち合わせの条件”という
のは仕事の都合、家庭の事情のこと、自分に知識が足りないと思
いすぎること、勇気の欠如、集中力がないと感じていることなど
などですが、しかし、そんなふうに決めこんでいることが、諸君
の「意味の半径」をいつも同一状態の繰り返しにしているのです。
編集的に学ぶとは何かというと、自分の中の言語的な限界を突
破することです。それをおこすには世の中の言葉や他者の言葉や
書物の中の言葉の「意味の半径」を感じることが、自分がさしか
かった「お題」なんだと思うことです。