いつもとおなじ、の裏には
我が家の食器棚には食器が溢れている。
特に、飲むという行為のための器が多い。コップ、グラス、湯のみ、マグ、お猪口などなど。。大きさも形状も素材も口触りもいろいろ。
お風呂あがりに食器棚を開いて、いつもは強化ガラスを手にとってお湯を飲むのだけれど、今日は湯のみにした。
なんでだろう、と、飲みながら思った。
そもそもわたしなんでこんなたくさんの器を持っているんだろう。と思った。
1日に10回、水分を補給する機会があったとして、それを365日繰り返したら3650回。それを10年繰り返したら36500回。閏は忘れても、それだけの回数の器選びをわたしは行なっていることになる。
本当は、それを、いつもおなじ、ひとつの器で飲むという行為にすることがシンプルでミニマルで素敵なのかもしれない。
けれども。
「いつもの」の裏には「いつもとちがう」が隠れているわけで、わたしはその「いつもとちがう」のために100個以上も器を持っているのではないか、と思う。まあ、いったいどれくらい、自分の生活に「いつもとちがう」が潜んでいると想定しているのか、と、棚に溢れる器を見て思わないわけでもないが。
たくさんあるとそれぞれへの愛着が薄いのではないかという疑念も生まれるのだけれど、それが意外にも、いつどうして欲しくなったのか、とか、だいたい憶えている。いくらくらいしたかも、だいたい、憶えている。
衰えてきた記憶の容量を考えるとどうにかしてdeleteして整理したい記憶のような気もするのだけれど、もしかしたらその経緯を忘れてしまうことはわたしのなかの「いつもとちがう」のための余裕を消してしまうことなのかもしれない。
今日選んだのは、数年前の出雲旅行で買った、出西窯の湯のみだ。3000円ほどした。
濃い紫の朝顔が、窯元の販売所の建物の側面を埋め尽くすように覆っていて素敵だった。暑い日だった。
2年ほど前に薄いヒビが入ってしまったのだけれど、特に使用に支障をきたさない傷だったのでそのまま使っている。いつか本格的に割れてしまったら金で継ごうと思っている。それも楽しみだ。
今晩は少し、ゆっくりしたかったのかもしれない。
だから少し、疲れているのかもしれない。