oo2 自由を奪う罠に敏感なのである

上司が「命令」という言葉を使ったとき、もうここには居られないと思った。

認可保育園で親が転職しづらいと知ったとき、認可保育園には預けられないと思った。

過渡期にある世の中で、組織はルール頼みでしか「子育て女性の社会復帰」を語れないと知ったとき、組織にいるのをやめようと思った。

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わたしは昔から自由であることが至上の喜びだ。それを妨げるものから逃れ続けてきたと思う。ルールは、最低限しか守るつもりがない。納得しなければ従いたくない。

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昔から勉強が大好きで、だから大学に入るところまではこの社会で苦労しなかったと思う。だって勉強でしか子どもの能力を測らない世の中だから。ラッキーだった。好きなことやってれば、周囲は勝手に良い子だと思ってくれた。

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小学校のときは宿題は意味がないと思ってほとんどやらなかった。ただただ時間を消費させるだけのドリルなんて、つまらなかった。好きな作文や自由研究はやったので、そんなに怒られなかった。

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中学校のときは、意味のない上下関係に縛る部活にいられなかった。カバンの持ち方が学年ごとに決まっていた。今でもバカじゃないかと思う。そういうことを是とする同学年の女の子たちにも嫌われた。わたしの方こそ嫌いだ、と思っていた。同調圧力を人生で一番強く感じる時代だったと思う。先生たちは味方してくれたので、なんとか3年間を過ごした。

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高校からは自分で学校を選べるようになって、自由を謳歌した。市立の学校に作られた国際教養科という、学年10クラス中、1クラスの特別クラスは、偏差値が普通科よりも良かったこともあって、先生たちから自由を容認されていた。ああ、世の中は、その場でやることやれれば自由が認められるのだ、と知った。(担任の先生は、3年間、自由に振る舞う学生たちをずっと職員室で守り続けてくれた。)

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大学は言わずもがな、人と違うことを大事にしてくれる場所だったから最高だった。

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もちろん社会に出たときに、やりたくないこともやらなければならなかった。それでも、最初に勤めた場所が外資系の金融だったので、なんとか仕事をした。就職活動で内定をもらって、一番社員が自由にしていそうな場所(わたしを自由に伸ばしてくれそうな場所)を選んだ、ということもある。

そもそも活動中に、自由でないと感じた会社は途中で面接をお断りしたし、もちろん、向こうからもお断りされたりした。笑

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とにかく、自由を妨げるものに、すぐに気がつく。

そういう考え方の人には近づかなくなる。

そういう意味では草原のシマウマのごとく、外敵に敏感だと自分で思う。

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実は子育てを始めたときも、同じように閉塞感を感じていた。子どもを持つということは、自分の自由を提供するということなのだと痛感した。それでも子どもは可愛くて、このわたしが自由を分け与えることを許容できるのだから、子どもの魅力というのは果てしないと毎日感心している。(いや、子どもはわたしの自由への欲求が息苦しく寂しいのかもしれないが、これでもすごいことなのだよ、息子よ。)

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ただ、このままではまずい、という気持ちが働いて、3ヶ月半で息子との密着関係を終了した。今でも良かったと思っている。保育ママさんもきっと、この人には24時間密着関係は無理だと思って入れてくれたのだと思う。とにかく保活中のわたしは奪われた自由を感じて苦しかった。

自由が奪われる!・・・そういう時のわたしの行動力は素晴らしくて(自画自賛)、保育ママへの預けが決まった頃、子ども子育て会議の区民委員を募集していると友人が教えてくれたその翌日には提出作文を書いて応募した。

保活という謎の未知の怪物は、保活を牛耳っている行政に近づかなければその生態を理解することはできないと思ったのだった。結果、そこで出会った人に今の保育園を紹介してもらって、無認可の自由を謳歌させてもらうことになった。

長い延長保育、365日の保育、行事は全て保育士が企画運営、そういう便利さと引き換えに、認可だからこその様々なルールが、わたしを不自由にするように感じているのだと気づいたのも、この頃だ。

もちろん、無認可には無認可だからこその参加型不自由(行事の積極的運営や季節ごとの園の長期休みなど)はあるけれど、そんなの認可のルールづくめの不自由に比べれば、どうってことはない。

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とにかく、自由が必要だ。

だから、家族は大変だ。

でも「罠」にわざわざ引っ掛からないように動くというのは本能だ。

わたしにとっての罠が「不自由」なのだから仕方がない。

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強いて言えば行動力だけが、罠を抜ける術だと思う。